MEMORIES 記憶の断片

大東亜戦争に出兵した兵士の軍隊生活を綴った手記
文章と絵は記憶を辿ってまとめられました

師団通信隊

 十八年の暮頃よりちらほら雲行きの悪い噂が、それとなく耳に入る。通信隊だけに情報が早い。十九年内地空襲が始まった頃から、昼夜の演習訓練で明け暮れた。総出演習 通信訓練 二号が通常であるが、大隊が使用する小型無線機が、多く使われる様になった。移動中の交信もよくやった。亦 総出演習も暑中炎天下、昼夜の強行軍 二食とか三食抜きとか 飲み水も制限され、本当に飲まず食わずで、演習も下手な討筏より楽でなかった。猛暑で、日射病で三分の一位落伍が出た時もあった。

 此の年には師団通信隊は、各大隊から五、六名ずつ選抜された下士官兵(主に兵隊だが)を、大隊通信兵として養成した。期間は三ケ月、此の教育を修業兵教育と云い、修業兵は約五、六十名程度、兵隊は主に二年兵三年兵。
 修業兵教育 此の年には各歩兵大隊より五、六名ずつ下士官も含む選抜されて通信隊にやってきた。総員五、六十名、三ケ月間通信兵としての教育を受けるのである。此の兵隊を修業兵と称した。大隊通信要員の養成である。部隊は此の修業兵を、数回送り出した。同時に平行して、初年兵教育もあり さながら陸軍教育学校そのものの感じがした。軍紀厳正では、師団随一と師団司令部から折り紙付き、師団は、十三軍きって軍記 風紀の喧しい師団といわれ、何の事はない中支派遣軍中一番喧しい部隊とされて居た。
 先にも記したと思うが、通信隊であっても本科の兵隊と、銃剣術 射撃等どの大会にも優勝した程である。師団の水泳大会でも優勝、記念にと八鉱池を造らされたわけ。我々が行った時出来上がったばかりで、立派なプールである。それを中心に、次から次ぎに手を加えさせられた。これも訓練の合間にである。夜間でも、営庭に電灯をつけ作業をした事もある。隣が工兵隊であるが、一時はお株をとった様にも感じさせられた。この様な部隊に、他部隊から転属して来た兵隊は、皆舌を巻いていた。そして亦他部隊への転属を心待ちにしたものだった。
 修業兵の諸君も通信隊の喧しさに驚き、何人か寄ると小声で部隊へ帰れる日を、指折り数えて待ちわぴて居た。各部隊から来た修業兵は、何かと気の毒な感じがした。何事も継子扱いにされがちである。中隊の推尉や曹長、一部の下士官から目の仇にされたものだ。何かなくなれば修業兵、悪い事は修業兵と誠に気の毒であった。演習から帰っても修業兵は、よく使役に狩り出された。自分も教育係をやって居た関係で、修業兵のかたを随分もった。通信隊の中にも、その様な馬鹿野郎が居るかと云うと、腹が立ってならなかったのを、今だに忘れられない。
 通信隊の給与は余り良くなかった。十七年頃など食器に七分目も良いところ、副食もいつもきまって粗末なもの、修業兵が来る様になってからだんだんと良くなって来た。
それでも修業兵達はよく話して呉れた。通信隊の給与はよそから比べると大分悪いと。
主計の腕が悪いのか部隊長がしめっけるのかそれとも食糧を貯歳しているのか部隊長がかわると、とたんに良くなったから不思議である。

 一方経費の節約か運営方法を上手に計画したのは、維新の屯由兵的やり方が功を奏したか、営庭の隅に農園を作り出す。畠には、見事な野菜が出来る様になった。此の島の緑が遠くから見ると、芝か緑のジュウタンの様な整然として営庭に美しさを一段と増した。

戦況の悪化

 大陸から内地空襲が始まった頃、師団命令で各部隊の営庭に一人用の防空壕、たこつぼ掘りが実施された。分遣からしばらくぶりに部隊に帰ってくると、そこに壕が掘ってある。勝手知らずに夜間などよくこの落とし穴に落ちたものだ。
師団司令部でも各部毎に、副官部 参謀部 兵器部 修理部 軍医部 営繕課 庭舎近くに一穴一穴ずつ掘ったものだ。その穴の縁に、小さい木札に名札を書き差し込み、個人専用の記しとしたものだ。出来上がって何だか戦局も深刻に感じ、自分で自分の墓穴を掘った感じがしたものだ。
ガタルカナルの敗北 十九年七月サイパン島玉砕南方方面の戦局の悪化・・・・
 フィリピン戦線苦闘の報、敵機勤部隊の大掛かりな「上陸作戦」、そして物量・・・
 その中で日増しに部隊での演習訓練も盛んになる。敵サンいよいよ近づけりの感がした。
 南方の戦線から体験をもとにした此れ迄とは違った訓練が晝夜かまわずに始まったのもこの頃からである。
 夜間部隊攻撃、斬込み戦法、晝間は対戦車攻撃訓練、敵前渡河演習。
 肉迫訓練で匍匐前進腹這ひになり前進する。両腕のひぢと足の爪先で腹を地べたにこすりながら進む訓練を営庭のはじからはじまで、行ったり来たり。
一日中軍服で地面をぞうきんがけしているみたいなもので、夜はお陰で被服の補修が忙しい。将校も下士官も古年兵、初年兵の区別なく皆演習に懸命であった。
 同時に部隊あげての創意工夫も盛んで背負コ造り、竹笛作り、木製の電鍵天幕、舟に使用する板枠作り等々、大それた新兵器とまでは行かないが作戦行動に必要な小道具が多く生まれた。