MEMORIES 記憶の断片

大東亜戦争に出兵した兵士の軍隊生活を綴った手記
文章と絵は記憶を辿ってまとめられました

軍隊生活・その二


 部隊では正規の軍帽を被って居る兵隊と略帽(戦闘帽)を被っている兵隊とが居る。略帽組は野戦帰りの兵隊とこれから野戦(戦地)に行く兵隊である。正規の軍帽組は内地の部隊要員である。
 野戦帰りの兵隊は吾々から見て重みと云うか威厳がある。なんとなく落ち着いて態度動作に余裕がみえる。年も現役兵より幾分いって居るか、おそらく召集解除になる兵隊かも知れない。兵舎の入口あたりで擦れ違う時は、ちょっと恐ろしいような気がしたものだ。
二、三日して自分達と入れ代わるように、満期と云うか除隊して行った。不思議なことに軍服から地方服に着替えると、どいつも良さそうな爺連である。また都会の人ではなく地方田舎の人のようでもある。職業個性もわかるようで面白い。皆ニコニコ顔で風呂敷包みを小脇にかかえるか手にぶら下げて、兵舎を出ていった。おそらく外地からの土産物が入って居るのだろう。
 班長殿上等兵殿は、お前達も二年位で召集兵だから帰れるだろう。それ迄の辛抱だな。など、吾々世帯持ちの補充兵に云い聞かせている。近年部隊もこのように出入りが激しいらしい。

 入隊翌日から各個教練、三聯隊の裏側の営庭でみっちりしこまれる。不動の姿勢から敬礼動作『右、向けえ右』『左、向けえ左』『まわれ右、前ススメー』『全体止レエ』『歩調取レヱ』『歩調止メ』『頭右』『頭中』『頭左』毎日、朝から夕方までオッチニー、オッチニー、捲脚袢がなかなかうまく捲けない。ほどけないようにと、強く捲くから足がつれそうに痛い。ピンタの数も日増しにふえる。
 俺達の軍隊生活は、召集で昭和十七年十月六日、麻布三聯隊の営門を入った時から始まる。
麻布三聯隊内、青山墓地に面したところに木造二階建兵舎があり、これが東部十六部隊で(本当の名は近衛師團通信隊)中支派遣軍六十師團通信部隊の内地留守部隊である。
十六部隊での約一ケ月間は軍事教練、先づ兵隊の基本動作となる。不動の姿勢から始まる各個教練をみっちり仕込まれた。吾々補充兵は場違いで粒は揃っていない。のっぽも居れば背丈の低いのも居る。共通しているのは痩せてること。又眼鏡使用も割りと多い。年令は云うまでもなくまちまちで三十才前後、六割がたが妻子持ち、中には嫁さんを迎えて七日で入隊と云う語れば涙組もいる。入隊から数日後になって、ある期間教育を受けた後野戦に行く。どの方面に行くかは勿論知らされないが、それとなく助教助手から聞かされた。

入隊その後

 面会は十日か半月してから許された。訓練中呼び出しがかかるのを、皆心待ちしたものだ。面会所に行くには、広い営庭を突っ切らなければならない。其の面会所へ行くまでの間を、内心びくびくしながら営庭を通り抜けるが、まだ兵隊としての基本動作が身につかず、よちよち歩きも良いところ(歩行中の敬礼、二人以上で歩行中の敬礼、号令のかけかた、歩きかた)途中、偉い奴とか上官に出くわさなければと心の中で念じながら、仮免許で初めて路上運転に出た時の感じ。敬礼一つまごつけば、其の場でぷん殴られるかどやされる。軍事教練も幾らか見られる様になってから、古年兵達の野外演習のお供をして、有祖川公園まで行軍に行った。軍服姿で始めての営外である。古年兵達は確か小型無線機を使用して居たと思う。あれが俺達の本業かな、果たして一人前の通信兵として物になるかな、なんて考えたり。道でも公園でも、誰か知っている奴に会えねえかな。
この街も二度と見られなくなってしまうのかな。いろんな事を念想しながら、公園での小休止(休憩時間)に、補充兵の一人が娑婆の風に当たって遂い気がゆるんで、鼻歌まじりで流行歌を口ずさんだ。それが教育係の上等兵殿の耳に入り、帰隊しての夜、点呼後待ってましたとばかり、めちゃめちゃに殴られた。お陰で共同責任とやらで、全員ピンタを貰った。
 毎晩点呼後には、必ず気合をかけられ、消灯ラッパが鳴って、ほっとした。

 窓の外には、青山から渋谷の方面が明るく夜空が見える。娑婆と塀一つ隅った軍隊というところは、こんなにも意気のつまるようなところかと、ため息が出て来た。消灯ラッパが鳴って、ホットするよう、物淋しい澄んだ音色で、耳から溶け込んで胸にしみた。地方に居た時は、兵隊屋敷の近くを夜通ると、澄んだ静かな空間を澄みきった音色に、なんとも云われない感動をうけた。